大森テニスクラブが誕生したのは大正12年です。

 明治天皇の御発意により「臣民は文武両道に励むべしとの主旨の一端を担うべく、弓道、剣道に代わる近代武道の一つとして、小銃射撃を国民に錬磨せしむべし」と、明治15年(1882年)、海軍元帥 西郷従道(西郷隆盛の実弟)らが本郷の向が丘に、一般の人に小銃射撃の訓練を奨励する目的で実弾射撃場を創設、後に、ここ大森村の約14,500坪の土地へ移転し、日本帝国小銃射的協会と改称したことに遡ります。小銃射撃の演習を国民一般に誘導し尚武の気風を鼓舞する目的で、明治天皇のもとに射撃展覧も数々なされたと記録にあります。
 年月日の記録は残っていませんが、大正の初期に西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しようと、軟式用1面、硬式用1面の計2面のテニスコートを敷地内に設けました。それがテニスクラブに進展したのは、慶應義塾大学庭球部が協力を依頼してきたことに端を発していると言われています。
 
 慶應義塾大学は他校に先駆けて庭球部を創設しましたが、安定した練習を出来るコートがなく苦慮していたこともあり、また良いご縁もあって当協会に協力を求めてきました。当協会はスポーツマンシップの啓発の要として、テニスの振興は特これからの日本の若い人達に極めて重要とそれを快諾しました。
早速、コートを5面にまで増設し、慶應義塾が参画したテニスクラブとしての環境が整い、慶応大学の庭球部と一般のテニスクラブが一緒になったユニークで斬新なテニスクラブ「大森庭球倶楽部」が開設されました。それは大正12年のことです。このようなあり方は慶應義塾大学が昭和12年、横浜の日吉に移転するまで続きました。それまでに周囲も宅地化が進み、実弾射撃には適さない場所となったため、敷地の三分の二を分譲地とし、テニスコートだけを残して射撃場は鶴見の北寺尾に同年移転しました。その後、運営はテニスを中心として独自に行い、平和的スポーツ、テニスの振興を主目的とした大森テニスクラブの現在の姿が明確となった時期でもあります。
 

 エピソードとしては、当時のボール
輸入品でしたので会員にとっては、とても高価なもので、草むらの多いこのコートではボールがよく無くなり、会費よりもその負担が大変だったという苦労話をよく耳にしました。また当時、空閑地には桜が植えられ、桜林の中でのテニスは世の平和を願うスポーツマンシップに相応しく、素晴らしいもので、早慶戦をはじめ幾多の名を残す大会がこの桜吹雪の中で行われました。多くの有名な先輩選手、会員の方々が言い伝え、書き記す名場面にこの桜のことが多く言われています。大木となった桜の木は、いま一本となりましたが、この大森テニスクラブの永い歴史を今もじっと見つめています。


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